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『栄花物語』の法華八講考

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Academic year: 2022

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University of Warsaw, Poland

『栄花物語』の法華八講考

仏事関係の記事が多くみられる『栄花物語』であるが、とくに巻第 十五「うたがひ」以降から道長の仏事善業が多彩さを極めてくる。自 らの病に不安を抱く道長は出家を遂げた後、さらに積極的に御堂造営 や造仏・写経、四天王寺や高野山への参詣などの仏事に関わるように なる。『栄花物語』には法華講会(八講・三十講)がみられるが、そ のほとんどが道長主催の法華講であることからも、道長の仏事への傾 倒さがわかるだろう。今回は法華講会のなかでも法華八講に焦点を当 て、『栄花物語』の法華八講を総括的に論じていきたい。

法華八講に関する研究

『栄花物語』は宇多天皇から堀河天皇までの十五代にわたる二百年 間をまとめた編年史である。巻第一「月の宴」は次のような宣言から 始まる。

世始りて後、この国の帝六十余代にならせたまひにけれど、この次 第書きつくすべきにあらず、こちよりてのことをぞしるすべき(『栄 花物語①』:17)。

神武天皇から六十二代の村上天皇までの時代を経た今、そのすべて を叙述するのは困難を極めるため、宇多・醍醐・朱雀帝という当今に 近い時代から記すとある。さらに序章に「世の中に宇多の帝と申す帝 おはしましけり」(栄花物語①』:17)と宇多天皇をはじめにかかげ るように、『日本書紀』 にはじまる最後の六国史 『日本三代実録』

(清和・陽成・光孝天皇三代の編年史)を継承する形で叙述される。

このように、編年史として編纂されたと考えられる『栄花物語』は文 学史の上では「歴史物語」というジャンルに位置づけられている。こ の点について曽根正人は、

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仮名文であり文学史上では「歴史物語」という範疇に入れられ ているが、決して歴史を題材とした「物語」ということではな い。作者としては、自身にとっての「史実」を語ってくれる史 料を「編纂」して編み上げた六国史を継ぐ「史書」なのであ る。(山中裕・久下裕利編2007)

と、『栄花物語』を 「史書」 と断言している。 はたして 『栄花物 語』を「史書」と認識すべきなのだろうか。膨大な歴史的資料を背景 とする『栄花物語』の性格上、現代の私たちは「史実」といかに向き 合うか、という問題に直面することになる。

『栄花物語』の法華八講に関する研究についても、歴史的に行われ た法華八講との関連において論じられる。「栄花物語に於ける史実性 と虚構性」という題目に端的に表されているように、中柴祥枝(1975) は『栄花物語』の法華講の記事を『御堂関白記』、『小右記』、『権 記』などの史料と照合することによって、『栄花物語』の記事におけ る史実と虚構の実態について指摘する。以下、その研究をまとめてお きたい。氏が作成した法華講一覧表は道長主催の法華講に限定される が、その一覧表によると道長主催の法華講はすべて八講と三十講であ り、三十講がその多くを占めているという。三十講は道長の法華信仰 において重要な役割を担っていたのである1。そして、 法華講 (八講

・三十講)は記録によると全部で三十四回修されたことがわかる。し かし、記録に残る法華講が『栄花物語』に取り上げられたのは十例だ けであり、その記述内容も様々であると中柴祥枝は述べる。氏はその 事実に着目して、史実と『栄花物語』の描写を比較分析することで、

作者の記事選択と執筆意図を考察する。個々の記録と『栄花物語』と の比較分析によると、 大きく二つの傾向がみられるという。 一つめ は「作者の意図する巻々の特色に合うように記事が選択されている」

(「中柴1975: 31) ことであり、 史実との相違が生じるのは巻の特色 を出すための虚構であるためという。二つめは、

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1三十講についてはすでに山本信吉(1970)が、道長の行った法華三十講は法華八 講発展の一頂点を示しており、三十講は長保四年から道長死去の前年万寿四年までの 二十数年間、毎年欠かすことなく行われていたと分析している。

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寛仁二年の二親の供養の為の法華八講あたりから後半への接続 の用意がされはじめ、巻十五「うたがひ」に於ける法華講の総 括記事を境にして後半は法華講の記事が多く取り上げられるよ うになる(「中柴1975: 31)

ことであり、これらの記事は道長の信仰心の深まりを強調する役割 として存在していたのではないかという。『栄花物語』の作者は法華 講の記事の漸増に、道長の仏事善業と信仰心の高まりを重ね合わせる ように意図して執筆したというのである。

先の中柴の研究が八講と三十講を対象としたのに対して、法華八講 に限定して史実と『栄花物語』における法華八講との関係について述 べるのは佐藤信一である(中柴1988)。氏は『栄花物語』は「八講」

を「年中行事という枠に嵌め込むことで些細な事実関係や前後関係を 超越した歴史の流れを描こうとした」 (中柴 1988: 153) と述べ、

『栄花物語』の歴史叙述のあり方を指摘した。例のひとつとして巻第 十二「たまのむらぎく」をあげている。以下、「たまのむらぎく」の 該当箇所をあげて佐藤の指摘する「八講」が「年中行事」として扱わ れる、その有様をみていきたい。

はかなく五月五日になりにければ、大宮より、姫宮にとて、薬 玉奉らせたまへり。それに、

底深く引けど絶えせぬ菖蒲草千年を松の根にやくらべん 御返し、中宮より、

年ごとの菖蒲の根に引きかへてこはたぐひなの長きためしや 今年は大事どもあべき年なれば、今より若君達、はかなき壺胡 籙の飾りや、のり馬の数までのことを思しいそぎけるもをかし くて、六月もたちぬ。七月のついたちには、法興院の御八講な どいそがせたまふ(『栄花物語②』:74-75)。

問題となるのは七月の「法興院の御八講」の開催時期である。「法 興院の御八講」開催は『御堂関白記』や『小右記』によると長和五年 六月であることがわかる。七月にはすでに「御八講」は終了している のである。それにもかかわらず七月に「御八講」の準備が行われてい

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ると記すことについて、『栄花物語』の作者は、五月の薬玉、六月の 菖蒲・競馬の仕度に続いて、本来なら晩夏の「御八講」を初秋七月に 改変して、年中行事に依拠する「歴史物語」の方法を秩序づけたとい う。このように佐藤は個人の営為であった「八講」を秋の「年中行事

」として位置づける『栄花物語』の歴史的叙述の方法について指摘す る。さらに、この巻第十二だけでなく、巻第七「とりべ野」、巻第十 九 「御裳ぎ」 についても同様に、 歴史叙述の一手段としての年中行 事、「八講」がみられると論じる。

佐藤信一(1993:58)は後の論文で、『栄花物語』にとって年中行 事は「道長を中心とする藤原北家に領導されるもの」であり、すべて は道長の繁栄を叙述するために法華八講などの年中行事が創設された と述べている。史実との相違を、『栄花物語』独自の方法として読み とく氏の論は斬新であろう。先の中柴祥枝と同様に、「史実」との相 違を積極的に読みとろうとする立場である。

以上のように、八講の叙述方法に関する先行研究をみてきた。藤原 道長の信仰を 『栄花物語』 の記述から読み解く研究2は多数あるが、

法華八講について中心に述べた研究となると極端にその数は少なくな る。この点については後にも述べるが、『栄花物語』の法華八講記述 の方法にも要因があると思われる。

次に、『栄花物語』に描かれる法華八講にはどのようなものがある か確認しておきたい。法華八講は、巻第七「とりべ野」から巻第四十

「紫野」までの十二箇所でみられる。括弧に示したのは施主、つまり 法華八講を主催した人物名である。

巻第七「とりべ野」(道長)

巻第八「はつはな」(道長)

巻第十二「たまのむらぎく」(道長)

巻第十四「あさみどり」(道長)

巻第十五「うたがひ」(道長)

巻第十九「御裳ぎ」(道長)

巻第二十四「わかばえ」(おそらく道長)

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2 仏教者道長像について述べる代表的な論に、曽根正人(1991)(のちに、曽根 正人(2000)『古代仏教界と王朝社会』吉川弘文館に所収)がある。

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巻第二十七「ころものたま」(皇太后宮妍子)

巻第二十九「たまのかざり」(道長)

巻第三十七「けぶりのあと」*

巻第三十九「布引の滝」*

巻第四十「紫野」*

『栄花物語』における法華八講の概要と特徴点については、すでに 安東大隆(1990)の研究がある。安東の研究は、『栄花物語』から個 々の法華八講を取り出し、それぞれの八講の性格を見いだすことを主 眼としている。それぞれの法華八講からは五つの特徴が見いだせると いう。法華八講の描写部分を総体的にながめてはじめてわかる『栄花 物語』の特徴である。氏の述べる特徴を以下引用する。

一、施主は、道長とその一族に関わるものが、大部分である。

二、その対象となっている人物も、施主との関連ということも あって、道長とその一族が多い。

三、その八講開講発願の目的は、追善供養の為というのが一番 多く、現世利益・後世菩提は同じ回数でそれに続く。

四、八講の内容についての記述は、他の法要に比較すると、第 五巻の講ぜられる日(薪の行道の日)を除いて極めて少ない。

五、内容には記述は少ないが、八講の周辺(どういう装束・ど ういう捧物など)についての記述は詳細である。(安東 1990: 6)

法華八講の主催者、施主は圧倒的に道長が多く、その発願は「追善 供養」を目的とする八講が全体的に多いという。「八講の周辺」が詳 細であることは、『落窪物語』の算賀法華八講が捧物を詳細に記述す る表現方法と類似していよう3。また、『栄花物語』は他の法要と比 べて八講の内容が極めて少ないという。従来、法華八講に関する研究 があまりみられなかったのも、『栄花物語』の八講記述のあり方にも 一因があるのである。とはいえ、法華八講の用例が全体で十二例みら れることは注目すべき点であろう。なおかつ、『栄花物語』の法華八

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3 『落窪物語』における算賀法華八講と捧物については、「落窪物語の法会」と いう題目で中古文学会秋季大会(2010年10月於京都)において発表した。

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講を前後の文脈を通してみると、法華八講はそのほとんどが死や病気 などの描写に絡むように描かれていることがわかる。 この点につい て、『栄花物語』の法華八講が個々の巻のなかで、いかなる役割を担 っているか考えていきたい。

その前に確認しておきたいことは、『栄花物語』を「物語」と捉え るか、「史書」と捉えるか、ということである。『栄花物語』は「史 実」を基にしているとはいえ、後世のために忠実に記録を残す漢文日 記とは異なり、『栄花物語』というひとつの作品世界を形成している と考えている。たとえば法華八講を「史実」そのものとして読むとす ると、いかなる問題が生じるのだろうか。八講の描写が極めて少ない

『栄花物語』の記述方法が起因して、『栄花物語』の八講は具体的内 容がみられない法会であるとの見 解 で 終 始してしまう恐れを持つ。

「史実」の八講との比較検討にとどまらない、作品構成としての法華 八講のあり方を考えていきたいのである。以下、法華八講群に着目し てみよう。

『栄花物語』の法華八講~正編を中心に~

先にあげた法華八講用例の巻名下に付けた巻三十七以降の*印は、

道長死後の法華八講であることを示す。『栄花物語』は道長の死が描 かれる巻第三十「つるのはやし」を境にして便宜的に正編と続編に区 別される。「つるのはやし」には、

ついたち四日、巳の時ばかりにぞ、うせさせたまひぬるやうな る。されど御胸より上は、まだ同じやうに温かにおはします。

なほ御口動かせたまふは、御念仏せさせたまふと見えたり。

(『栄花物語③』:165)

と、一心に念仏に専念した道長の穏やかな死が描かれる。時は、万 寿四年十二月四日。道長の臨終念仏は阿弥陀如来の相好をまみえるが ごとく荘重に描かれ、「権者」としての道長の姿を描写する。

今回は正編、巻第七「とりべ野」から巻第二十九「たまのかざり」

までの道長存命中の法華八講を対象として論じていく。法会の内容に

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言及しているものを対象としたため、以下の四巻にみられる八講は対 象外とした。

巻第八「はつはな」・巻第十二「たまのむらぎく」・巻第十五

「うたがひ」・巻第十九「御裳ぎ」

巻第八「はつはな」と巻第十二「たまのむらぎく」には、「法興院 の御八講」との記述がみられ、恒常的に行われていた法会であったこ とがわかる。「はつはな」では土御門殿の秋の情緒とともに、法興院 で八講が行われたことが叙述される。「たまのむらぎく」では、「七 月のついたちには、法興院の御八講などいそがせたまふ」と(『栄花 物語③』: 75)、 八講を実施したという一文がみられる。 佐藤信一

(1993)が「年中行事」の「八講」として指摘した部分である。

巻第十五「うたがひ」には、「このひまひまには、日吉の御社の八 講おこなはせたまふ」(『栄花物語③』:197)という一文がみられ るが、日吉の御社についてそれ以上の言及はない。

巻第十九「御裳ぎ」には、六月一日に行われた円教寺での「一条院 の御八講」、月末の法興院での「御八講」が道長によって行われたこ とが記され、同月二十日には宇治殿(宇治の平等院)で「御八講」が 行われたとある。宇治殿の「御八講」については詳しい叙述がみられ るが、八講の目的が殺生をした宇治川の魚であり、人物を対象とした 法会でないため今回は対象外とした。しかし、『栄花物語』の法華八 講のなかで唯一、道長によって和歌がよまれる八講として興味深い巻 である。道長は八講の最終日に、八講の功徳を述べる和歌を詠じ、講 師たちはそれを詠誦する。『栄花物語』の八講と和歌の関わりについ ては今後の課題としたい。

○巻第七「とりべ野」

この巻名は定子を鳥辺野に埋葬したことから名づけられている。皇 后定子の死の記述以外にも、東宮居貞親王妃綏子、道綱室、東三条院 詮子、 為尊親王、 そして巻末には淑景舎女御原子の急死で巻が閉じ

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る。 山中裕4が述べるように、 死の記述に満たされている巻である。

なお、皇后定子と道綱室はそれぞれ出産後に死亡している。定子の御 子、 媄子内親王の誕生については 「女におはしますを口惜しけれ」

(『栄花物語①』:325)と、女児であることを無念とする一文がみ られるものの、見舞いの使者が出産の慶事に駆けつける喜ばしい状況 が描かれる。しかし、そのような吉事も束の間、後産の定子の死によ って、突如として即座に残された御子への不安・愛する人を突如失う 哀惜の念が渦巻く場面となる。このように暗澹たる死の雰囲気がただ よう「とりべ野」の巻において、はじめて法華八講の記述が始まるの は偶然であろうか。法華講会という儀式を行うことで、死者の鎮魂、

憂愁に閉ざされた状況を切り開くかのようである。それを裏付けるよ うに、詮子のための法華八講は盛大に行われる。

出でさせたまひてほどなく御八講始めさせたまふ。すべて年ご ろの御八講には勝れたるほど推しはかるべし。講師たち、この 世、後の世の御事めでたう仕うまつる。よろづを思しいそがせ たまふ御儀式有様、聞えさすればおろかなり、ゆゆしきまであ り。殿もそのけしきを見たてまつらせたまひて、よろづの山々 寺々の御祈りせさせたまふ(『栄花物語①』:340-341)。

詮子はいつもの八講とは比較にならぬほどの最善を尽くし、傍線部 のように恐ろしいほどの盛儀を実施したとある。道長もあらゆる山々 寺々へのお祈りに余念がない。『栄花物語』ではこの法華八講は石山 詣帰京後に実施とあり、八講後には「かくて十月に御賀あり。土御門 にてせさせたまふ」(『栄花物語①』:341)と、続いて詮子の四十 賀が行われている。「史実」ではまず法華八講が行われ、四十賀、石 山詣と行われたとある5。 しかし、『栄花物語』では、 道長の病気を

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4 山中裕「『栄花物語』と藤原道長」(2007)は、「巻七は編年で叙述は進み、

いままでとは変りはないが、「とりべの」という巻名のごとく死の記述に満たされて いる巻である」と述べる。また、原子の死がこの巻の最後に位置することについて、

「そのことは、中関白家に重なる不幸という構想が存在する」と指摘している。

5『権記』 (史料大成、 臨川書店) によると、 長保三年九月十四日に 「御八 講」、長保三年十月に「行幸」、「石山寺」参詣という順序で記されている。

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理由に石山詣が先に行われ、法華八講、四十賀という順番で行われた ことになっている。どちらにしても法華八講、四十賀という順序は崩 れていない。つまり、この法華八講は詮子の四十賀を祝福する算賀法 華八講であると考えられよう。

盛大な八講を行ったが、十二月に詮子は発症し、祈祷のかいもなく 数日後に亡くなる。先の引用文でみたように詮子の算賀法華八講は口 に出すのも恐ろしいほどの盛儀であり、同時に算賀も「すべて口もき かねばえ書きもつづけず。よろずの事しつくさせたまへり」(『栄花 物語①』: 342)と、表現するのも困難なほど盛大な儀式であったと ある。算賀の描写には「めでたし」という形容詞が多用され (五例)、

詮子の最後の儀式がいかに素晴らしいものであるかを強調するのであ る。

先にも述べたが、『栄花物語』における法華八講はこの巻が初発で ある。死の記述が多い「とりべ野」のなかで、盛儀を尽くした算賀法 華八講は、華やかな詮子のひとこまを映し出す。詮子の華麗な姿は法 華八講によって象徴的に表されるということである。

○巻第十四「あさみどり」

『小右記』「寛仁二年十二月十四日」に「末ノ剋バカリ前太府ニ参 ル。今日ヨリ五个日ヲ限リ二親ノ奉為仏事ヲ修セラル」とあり、「二 親」 つまり兼家と時姫のための八講が行われたことがわかる。 しか し、『栄花物語』には、

殿にはこのごろ御八講せさせたまはんとて、「よろづこのたび はわが宝ふるひてむ」とのたまはせて、いみじきことどもせさ せたまふ。(『栄花物語②』:159)

と具体的な記述はなく、道長が八講に莫大な投資を決意する様子が みられるのみである。このすぐ前の記事には高松殿の女御(寛子)に 小一条院が生まれたとある。道長は誕生を大変喜び、産養の準備や慶 賀の数は並大抵ではなかった。 しかし、 生誕から七日も過ぎたある 日、 小一条院は湯浴み後に突如息が絶え、 そのまま亡くなってしま

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う。人々は突然の不幸に戸惑いと悲しみをあらわにする。今まで子ど もを早世する経験のなかった道長にとっても、小一条院との突然の別 れは相当に辛いものであった。この小一条院死去の直後に、法華八講 は行われるのである。先に引用した道長の八講の決意の後に、

院の御子の御事あれど、これはさやうのことに思し障るべきに あらねば、いそがせたまふ。(『栄花物語②』:159)

とある。「院の御子の御事」が小一条院逝去のことを指すのか、小 一条院早世が八講以後という記録もあることから産穢を指すのか、解 釈が分かれるところである6。 しかし、 どのような理由であったとし ても、それが支障となり八講を中止するようなことはなかったという ことである。永昭の説経は評判が立つほど立派で、列席の聴衆からも

「永昭の幸ひのいみじき」(『栄花物語②』:160)と賛嘆の言葉を 受けている。万全の用意を成し遂げ、八講は滞りなく行われるかとみ えたが、 今度は五巻日の前夜に敦康親王が急死する( 敦康親王の死 は、『小右記』によると五巻日の翌日十七日となっている)。

五巻の日は御遊びあるべう、船の楽などよろづその御用意かね てよりあるに、明日とての夜さり聞しめせば、「式部卿宮うせ たまひぬ」 とののしる。 「あなあさまし、 こはいかなること ぞ。日ごろ悩ませたまふなどいふこともなかりつるを」とて、

殿の御前まづ走りまゐらせたまへれども、げに、限りになり果 てさせたまひぬとあれば、あさましくいみじうて帰らせたまひ ぬ。明日の御遊び止まりぬ。口惜しながら、日ごろありて、御 八講も果てぬ。(『栄花物語②』:160-161)

以前から病に伏せていたわけでもない突然の死である。道長は寝床 に駆けつけたが、すでに時遅く敦康親王は帰らぬ人となっていた。舞

________________

6 松村博司(1976)は、小一条院が亡くなったのは八講後であることから、こ の部分について「小一条院の若宮誕生というようなこともあったが、今度のことはそ のような産穢が支障となって中止なさるようなことではないから、御準備なさる」と 現代語訳をしている。

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楽・船楽などの饗宴はすべて中止となる。そして、八講も何日か経過 したのち中途で終わる。『左経記』、『小右記』によると、五巻日は 十二月十六日に始まったとある。『小右記』「十八日条」に「第八講 結願也」とあることから、通常なら四日間で行う八講を三日に短縮し たということだろう。

このようにたいそうな気勢で開始された法華八講であったが、最も 高揚する五巻日が敦康親王の死を境に描かれなくなり、八講は敦康親 王を弔事するように粛然と終了する。

○巻第二十四「わかばえ」

八講に関する記事は次の一文で簡潔する。

三月十余日に大宮の御八講あるべしとて、女房もいみじういそ ぎ、世の中にも御捧物いそぎののしるめり。(『栄花物語②』

:460-461)

万寿二年三月に大宮(彰子)の八講が催されることになり、女房た ちはその用意に余念がない。この八講がいかなる種類の八講かは判断 できない。なお、この一文は、皇后娍子の症状に挟まれるかたちで記 述される。娍子の体調は、「去年より悩ませたまひて、ともすれば限 り限りと見えさせたまふぞいみじき」(『栄花物語②』: 460)とあ るように危篤状態に陥っている。そのさなかでの八講開催である。彰 子の八講については、最初にあげた準備段階のみでこれ以上触れられ ることはないのである。

一方で、娍子の容態については詳しい記述があり、

院は宮の御悩みをいみじう思し歎かせたまふ。この院の女御殿 も、いと苦しげにせさせたまひつつ、月日にそへて影のやうに のみならせたまへば、かたがたいかにとのみいみじう思し歎か せたまふ。入道殿よりも、かくおはしませば、御修法、御読経 なども隙なく思し掟てさせたまふ。(栄花物語②』:461)

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と、衰弱していく娍子への人々の悲嘆を中心として描かれる。娍子 の体調を憂うことに重きが置かれ、娍子の病気平癒の八講も行われて いないようである。危篤状態の娍子にとって八講を行う一寸の余裕は なく、御修法や御読経によって早急に病の原因と考えられる物の怪退 治に力を入れることで精一杯であることが、 この文からわかる。 な お、娍子の死は巻第二十五「みねの月」にみられる。

つまり、彰子の八講は娍子の様態悪化に同調するように簡略化して 叙述されるのである。または、娍子の状態にかかわらず八講を行う彰 子という見方も可能となるが、巻第十四「あさみどり」のように不幸 の発生は八講の記述を制止するほどの力を持つ。よって、それ以上の 記述がないと考えられる。

○巻第二十七「ころものたま」

妍子は故三條院のための追善八講を開催することに決め、その仕度 を始める。

かくて皇太后宮には、故三条院の御ために御八講せさせたまは んとて、仏みな造りたてまつらせたまへるに、五月十九日より といそがせたまふ。(『栄花物語③』:68)

その準備段階のさなかの十五日明け方には左兵衛督(公信)が亡く なっている。残された姫君を誰もが不憫に思うのだった。

枇杷殿の八講は二十人の僧によって行われた。以下のように列席者 の席次が明確に記されているのが特徴である。

・宮の御前は一品宮の御方におはしまして、宮のおはしまし所 の母屋四間、南東の廂かけてしつらはせたまへりけり。

・殿の御前は、東の北の方によりたる妻戸のもとにおはしまし て、水の上の渡 殿を御休所にせさせたまへり。

・女房、(中略)寝殿の西南面より渡殿、西の対の東面、南と に皆ゐたり。

・上達部は寝殿の南の廂におはします。

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・殿上人は上達部のうしろに高欄にゐたり。

・僧綱は母屋の東によりて、南を上にて西向きにさぶらひたま ふ。凡僧はまた東の廂に、同じごと南を上にて北ざまに並び たり。(『栄花物語③』:70)

今までにあげた『栄花物語』の八講では巻第十四「あさみどり」に

「永昭」という講師の名はみられたが、列席者とその席次を記すよう な具体的記述はみられなかった。また、この巻は唯一五巻日の記述が ある巻である。誰がどのような風趣に富んだ捧物を捧げたかが主要な 関心事となっている。後日談として「御八講過ぎぬれば、宮のうち日 ごろ恋しく人々思ひけり」(『栄花物語③』:73)と女房たちの語り 種となる点からも、妍子がいかに華美を尽くした法会を行ったかがわ かるのである。巻第七「とりべ野」の算賀法華八講では儀式の様子を 口に出すことは畏れ多いとして、具体的に記述するのを避ける方法を みたが、この巻では席次や五巻日のように、ある限られた儀式の一部 分を詳細に記述する方法をとっている。

○巻第二十九「たまのかざり」

巻第二十七「ころものたま」で盛儀を尽くした妍子であったが、堀 河左大臣(藤原顕光)、女御(延子)や内侍殿(嬉子)の怨霊に取り 憑かれ、容態は悪くなる一方であった。長い闘病生活でやせ細った妍 子を心配して、道長は法成寺の五大堂において御修法を行う。八月十 三日には 「この渡りたまへる百体の釈迦の供養せん」 (『栄花物語

③』:125)と、釈迦堂供養を行う。そのまま引き続いて八講を予定 していたが、 道長は妍子の病態を憂慮して八講の実施を思いとどま る。しかし、妍子は八講の続行を願い、道長は妍子の快復を祈願する ために釈迦堂供養と八講の準備を行う。

さて事始まりぬ。 御堂仏供養、 やがて御八講なれど、 講師た ち、ことごとなし、ただこの宮の御悩みのよしを、かへすがへ すも心をとなへ祈りまうしたまふ。例のみな百僧なり。法服せ させたまふ。百体の釈迦の一念の故に、御命を延べさせたまふ

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とも、百年は延びさせたまふべしなど、あはれに尊くかなし。

柱どもには法華経の心をみな絵にかかせたまへれど、おほかた の僧たちも、ただ今はこの御事のみ心にかかりて、静心なげな り。はかなう日ごろも過ぎて、僧どもの布施いといかめしうせ させたまへり。(『栄花物語③』:126-127)

祈願の目的は専ら妍子の平癒である。僧を百人集め、百体の釈迦に 妍子の延命を祈願する。このような大規模な八講を実施したが、その 願いもむなしく妍子は万寿四年九月十四日に臨終出家を遂げた後亡く なった。

以上のように、五つの巻に描かれる法華八講をみてきた。開催準備 や開催中までを含めてそのすべてが人の死や病に必ず関係することが わかった。たとえば、巻第七「とりべ野」の算賀法華八講は四十賀を 迎えた詮子への祝福と延命祈願を行う八講として、詮子の最期の華や かな時期を克明に伝える役割を担っていた。また、巻第二十九「たま のかざり」は最大限の力を尽くして病気平癒の祈願をしたのだが、そ の甲斐もなく世を去る妍子への無念が描かれていた。これらは法華八 講開催とその結果という 一 連の流れのなかで読み解くことができよ う。それに対して、巻第十四「あさみどり」と巻第二十四「わかばえ

」は、八講の開催中、もしくは準備段階のさなかに不幸が生じ、八講 についてそれ以上触れられることなく巻が閉じられる。八講は急逝や 容態悪化という不慮 の出来 事によって最終日まで描かれることはな い。「あさみどり」では二親のための八講準備が行われ、そのさなか に小一条院が急逝、五巻日は中止となる。「わかばえ」における彰子 の八講は皇后娍子の症状に挟まれるかたちで、八講の準備をしたこと が描かれるのみである。これらの巻では、法華八講は死や病という不 運に寄り添うかのように配置され、さまざまな愁傷を包括する力を備 えていたのである。

もともと八講は何らかの目的があって開催される7。 死者の冥福を 祈るための「追善供養」や病気平癒などの「現世利益」など、法華講

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7 佐藤道子(1995: 79-80)は、「法会は、開催すべき契機に触発されて、願主 が願意を発し、主催者が具体的な計画を立て、実行する。立案に際しては、法会開催 の趣旨が普く理解され、発願した願意を達成するための効果的な表現手段が求められ

(15)

会は生死と最も関わりの深い儀式である。そのため、死や病気などの 描写と絡むように法 華八講 が描かれるのは不自 然 なことではあるま い。だが、他作品と比較してみると、『栄花物語』の法華八講の特質 が浮き彫りになるのである。『源氏物語』の法会は開催されるべき日 時が明確に決められ、確固たる法会の場が事前に用意されていた。公 の儀式としての不動の地位を占めていたのである。それゆえ、参集し た人物は和歌をよみ合い、 ある特定の空 間 を 築き上げることができ た。死や病の描写とはかけ離れた儀式のひとつとして法会が存在する のが『源氏物語』の法会の特徴である (園山 2007)。 しかし、 『栄 花物語』は八講が主体なのではなく、死や病を慰撫する端役として機 能しているのである。唯一、巻二十七「ころものたま」が列席者を明 示して、五巻日の盛大さを叙述するが、巻二十九「たまのかざり」で は主催者であった妍子の八講が催され、最終的には死に至る描写で締 め括られる。ここでもやはり、『栄花物語』の八講は死と病と切り離 せない関係であるのである。

法華八講は多数の死の場面が描かれる巻第七「とりべ野」から登場 する。それ以前の巻に八講が一切みられないのは不思議なことである

。そして、巻第七以降、不幸な記事が頻発するところには必ずという ほど八講がみられるのである。『栄花物語』において八講は死や病と いう負の要素と隣接しているといってもよいだろう。だが、そのよう な八講も道長死去の巻第三十「つるのはやし」にはみられない。八講 だけでなく三十講も行われず、加持祈祷も公然とは行われていない。

関白殿(頼通)は道長の病気平癒のために加持祈祷を指示しようとす るが、道長はその行為を拒否して、念仏に専念したいと訴える。以下 はそのときの道長の発言である。

さらにさらに。おのれをあはれと思はん人は、このたびの心地 に祈りせんはなかなか恨みんとす。おのれをば悪道に墜ちよと こそはあらめ。ただ念仏をのみぞ聞くべき。この君達、さらに さらにな寄りいませそ。(『栄花物語③』:150)

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るわけであり、 その表現手段として、 法会の目的にふさわしい法要形式が選択され る」と説明している。

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加持祈祷は無用であり、またそのような行為をするならば遺恨にな るとまで述べている。念仏の妨げとなるため、親族さえも近づけよう とはしない徹底ぶりである。 道長はその後、 阿弥陀堂に場所を移し て、ひたすら極楽往生を願い念仏修行に専念する。臨終まで阿弥陀仏 の御名を称える道長である。法華八講は集団的要素の強い祈りの場で ある。また、法会開催の政治力・財力をつぶさに「見せる」公の儀式 でもある。大勢の人物の関心を集めることは、主催者の権力誇示に直 結する。主催をするためには精神面・体力面も必要となろう。そのよ うな法華八講を主導的に催してきた道長であったが、最期はひたすら 念仏という個人の祈りを選択したのだった。

おわりに

『栄花物語』の正編に描かれる法華八講について考察してきた。死 や病に寄り添う法華八講 の様 子を指 摘することができたと思う。 ま た、御堂造営や造仏・写経をはじめとする多くの仏事善業を行い、そ の一環として精力的に法華講会を開催してきた道長の最期についても 述べた。今回は法華八講に焦点を当てたが、『栄花物語』には法華三 十講も描かれる。法華八講とあわせた考察が必要となろう。また、巻 第十六「もとのしづく」から巻第十八「たまのうてな」にかけて語ら れる法成寺金堂供養など、法華講会以外の仏教関連記事も多くみられ る。機会をあらためて述べていきたい。

参考文献

安東大隆(1990) 「『栄花物語』 にみえる法華八講」 『別府大学紀要31号』

(1月)、1-6頁

『栄花物語①』(新編日本古典文学全集)(1998)小学館

『栄花物語②』(新編日本古典文学全集)(1998)小学館

『栄花物語③』(新編日本古典文学全集)(1998)小学館

佐藤信一 (1993) 「『栄花物語』 の法華八講―信仰との関わりの有無を中心 に―」『物語研究1』(10月)

(17)

佐藤道子(1995)「法会と儀式」『仏教文学講座第8巻 唱導の文学』勉誠社 園山千里 (2007)「『源氏物語』の法会と和歌―悲哀を基調とした法会の和歌―」

『立教大学日本文学』第99号(12月)、2-13頁

曽根正人(1991)「聖なる仏教者藤原道長―『栄花物語』の仏教思想の一側面―

」山中裕編『王朝歴史物語の世界』吉川弘文館(曽根正人(2000)『古代仏教界 と王朝社会』吉川弘文館に所収)

中柴祥枝(1975)「栄花物語に於ける史実性と虚構性―藤原道長の法華講を中心 として―」『国文目白14』(2月)、24-34頁

中柴祥枝(1988)「『栄花物語』の法華八講について―歴史叙述の一手段として

―」『栄花物語研究2』高科書店

松村博司(1976)『栄花物語全注釈(6)』角川書店

山中裕・久下裕利編(2007)「『栄花物語』の仏教―道長像の仏教と作者の仏教

―」『歴史物語の新研究 歴史と物語を考える』新典社

山中裕・久下裕利編(2007)『歴史物語の新研究 歴史と物語を考える』新典社 山本信吉(1970)「法華八講と道長の三十講(下)」『仏教芸術78』(11月)

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