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Preservation of modern architecture in the Netherlands

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Academic year: 2021

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-79- ような歴史性に欠けるからです。私自身も正直を申しまして、慎重に考えなければならな いと思っているところです。この建物はたった築30 年程度ですが、私の頭の中では覚えて しまっています。文脈の中で考えていかなければならないという面もあります。 最後に、私が文句なしに好きな建築をひ とつ加えさせてください。ジャン・ヌーベ ル(Jean Nouvel)がパリに作ったアラブ 世界研究所(L’ Institut du Monde Arab) (写真 24)です。今日の建築家と学生の 皆さんにお伝えしたいことがあります。今 皆さんが設計している建築は、明日には保 存の議論の対象になるということです。今 までならば、そんな明日はずっと先のこと であると考えてこられましたし、母なる自 然が勝手に残すべきものを選択してくれ ていました。しかし今の時代にそれはもう通用しません。技術は、建設だけではなく保存 に関しても大変重要となりました。素材や技術に関する探究心や経験はますます高まり、 それぞれの建物に個別にカスタマイズして考えなくてはならないこととなりました。何が オーセンティックなのか、という議論も続いていくでしょう。私自身、この重要な議論に 貢献し続けたいと願っています。すべての世代はそれぞれに独自の歴史を作っていくので す。よく心にとめておいていただきたいのは、私達の現在は明日になれば過去になるのだ ということです。 ◎講演2:マリー=テレーズ・ファン・トール「オランダの近代建築保存の取り組み」 皆様、おはようございます。今日私たちを このシンポジウムに招いていただきました こと感謝申し上げます。また大田先生には私 たちのことを紹介していただき、ありがとう ございます。私はデルフト工科大学建築学部 RMIT 学科に所属しております。RMIT につ いては説明が難しいのですが、皆さまに出来 るだけ分かり易くご説明しようと思います。 教育プログラムについては、後ほどヒルキ ー先生からご説明があると思いますので、私 はRMIT の“R” つまりリサーチ、研究活 <写真 25>マリー=テレーズ・ファン・トール <写真 24>アラブ世界研究助

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-80- 動に焦点を当ててご説明していきます。 RMIT とは、建築環境の Modification,Intervention,Transformation に関する研究お よび教育を意味しております。“R”には restoration,reuse,redesign,research といっ た意味もございます。 “M”“I”“T”はそれぞれ Research の3つのレベル(スケール)を表しております。 Modification としての“M”は、素材という基本的な小さいレベル(スケール)に関しての ものです。Intervention は建造物のレベルです。Transformation は都市構造物と背景のレ ベル(スケール)です。これらすべては、文化遺産における価値を考慮して定義づけられ ています。 私たちの外部での研究活動の成果として、建築家リートフェルトの世界に関する書籍を 昨年出版したりもしました。RMIT での私たちの研究活動は当然のことですが、建築学部の 研究活動の一環として行っています。 図1は、2010 年に出版した建築学部研究総覧の 表紙です。RMIT の研究活動では、学部の諸研究の うち設計(意匠)と歴史を扱っております。 この研究プログラムでは、3つの研究方針を掲げ ております。一つは過去に関する知識です。二つは Intervention です。三つは社会的枠組み、つまり各 機関や諸条件(人々の意識等)などのIntervention に対する姿勢の在り方についてです。 図2のスライドは、研究プログラムの一つ目の方 針に沿って行った研究事例の一つである、リートフ ェルトの世界に関する研究の写真です。彼のオフィ スビルディングや彼の顔、赤と青の椅子などの写真 を載せておりますが、この有名な赤と青の椅子は、 京都工芸繊維大学に摸造品があると聞いておりま す(註:大学本部棟1 階に展示されている)。 私たちの研究成果として、例えば修復や 変更に対する反響や建築物に関する伝記を 数年にわたり研究した事例として、ゾンネ ストラール・サナトリウムがあります。こ の本には、(修復に関わった)建築家フーベ ルト・ヤン・ヘンケットとヴェッセル・デ・ ヨンゲのことや、DOCOMOMO 結成のこと も載せてあります。RMIT も研究活動の一 環としてこの本の制作と出版に協力いたし <図1>建築学部研究総覧 <図2>リートフェルトに関する研究事例

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-81- ました。 今回、修復や変更に対する反響の事例として、ゾンネストラール・サナトリウムとデ・ ツウィハー倉庫、ソンスビーク・パビリオンのことをお話しいたします。 最初にゾンネストラール・サナトリウムですが、同サナトリウムは1926 年から 1931 年 に、建築家のヤン・ダウカーとベルナルト・バイフート、技術者のヤン・ヘルコ・ウィー ベンハによって、ヒルフェルスムに建設されました。写真26 は 1928 年 6 月 12 日のサナ トリウムオープニング式典の時に撮影されたものです。中央に写っているのがサナトリウ ムの創設者であり、このプロジェクトの中心人物であるヤン・ファン・ズートフェンで、 左端に写っているのがヤン・ダウカーです。 写真27 は 1928 年 6 月完成直前の主要 棟で、技術者ヘルコ・ウィーベンハの設計 による鉄筋コンクリート構造です。設計過 程からダウカーは常に経済的に建築を行 って建設コストを節約しつつ、建築の本質 を求めようとしました。そして彼はこれを “精神的経済”と呼びました。 写真28 は 1931 年に撮影されたサナトリ ウム諸施設の航空写真です。森の中に主要 棟と2 つの別棟が立っているのが見えます。 主要棟は看護・事務管理・厨房の機能を持 ち合わせて建てられていました。サナトリ ウムには健康管理の機能だけでなく、患者 の回復過程は数段階に分かれていたので、 ある一定まで回復したら社会復帰の準備 という機能があり、患者は職場復帰のため 作業棟で働きました。2 棟の作業棟が写真 左上に見えています。 写真28 で下方に写っているのがテル・ メーレン棟です。写真29 が 1930 年代の写 真です。この建物は2 階建てで個室に分か れていて各室にベッドがあり、ベッドは窓 を開ければテラスに張り出せる造りにな っていました。 回復の最終段階に入ると患者はこのよ うに作業訓練をしたのですが、最初の2 棟 の作業棟は患者たち自身の手によって建 <写真 26>サナトリウムオープニング式典 <写真 27>サナトリウム主要棟 <写真 28>サナトリウム航空写真

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-82- 設されました。 その後 50・60・70 年代に、サナトリウ ムは病院へと変わりました。80 年代以降、 建物は使われなくなり空家状態となりまし た。80~90 年代の修復前には荒廃した状況 になります。その荒廃した様子は、近代建 築の荒廃の象徴であります。 80~90 年代はまた、サナトリウムを将 来どうするかを考え始めた時期でもあり ます。最初におこった疑問は、果たして脆弱で機能の特化した建物が修復可能なのかどう かという事でした。経済的に建設されたため、素材自体も脆弱なものでした。建築家フー ベルト・ヤン・ヘンケットとヴェッセル・デ・ヨンゲは、80 年代に技術面における調査を 開始しました。そしてこの技術面の研究活動に、デルフト工科大学とアイントホーフェン 工科大学が協力しました。活動資金はオランダ政府の国立文化財保存局から提供を受けま した。この調査研究では、ドレッセルホイス棟が主要なケース・スタディとして扱われま した。1988 年、サナトリウムの主要部分が国の文化財(Rijksmonument)に登録されまし た。政府・民間からも多大な献身や資金がこの研究活動に送られました。その後1995 年に は、サナトリウムはユネスコの世界遺産暫定リストにノミネートされました。一連の調査 活動は建造物の修復作業に重要な意味合いを持ちました。 次に修復のコンセプトですが、ヴェッセル・デ・ヨンゲによる修復が2001 年に始まりま した。これは技術面の調査の結果に基づいて行われました。修復は1931 年当時の状態を起 点としました。修復活動の傍ら、研究活動も継続されました。主要棟は当初のコンセプト に戻されました。ケース・スタディ対象であるドレッセルホイス棟は保存修復されました。 もう一方の分棟テル・メーレン棟は、既に1950 年代に大幅に改変されていましたが、(サ ナトリウムという)複合施設の一部として保存されました。現在は“(建物の)意図的な仮 設性”と“持続可能な修復”という(相反する)問題の解決策を模索しています。 図3にあるのは、2002 年の修復作業時 に撮影した写真です。主要棟とドレッセル ホイス棟の様子です。 写真30 は修復後の主要棟の写真(2003 年)です。内装と外装は2001 年から 2003 年に修復されました。当初の建物のうち、 コンクリートの骨組みや内壁・ファサード の一部だけが残りました。作業は慎重に行 われましたが、主要棟のうち80%が復元と なりました。修復後は建物に新たな機能を <写真 29>テル・メーレン棟 <図3>2002 年修復時

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-83- 与える必要があり、現在一部が医療関係のテ ナントとして活用されています。 では、主要棟の修復作業の詳細をご紹介し ます。ガラスの修復には、リトアニアより取 り寄せた延べ板ガラスを使用しました。当初 の建物の「明るさ」と「軽快さ」という知覚 は非常に重要であると考えていましたので、 ガラスの取り付け作業は慎重に行われまし た。フロート板ガラスが透明性という点で(使用に)適していましたが、最終的には、延 べ板ガラスというオーセンティックな素材を使用し当初の構造を復元し、延べ板ガラスの 「ひずみ」を復元することにしました。 図4は以前医務室だった部屋と そこを修復した後の写真です。こ れは記録資料だけでなく、写真も 修復作業において非常に役立った 事を示しております。写真の例は また、建物の“インテグリティ” の象徴的なものと言えます。 図 5 に あ る 写 真 は 2003 年と 2008 年に撮影された、修復後の写 真の一例です。主要棟での調査の 結果が、ドレッセルホイス棟の修 復作業にも活用されました。 ドレッセルホイス棟は資金不足 のため 2007 年までは修復に着手 できませんでした。今この棟は空 室の状態です。修復を可能にした のは多額の補助金のおかげでした。 2008 年の建物の骨組みの修復後、 この棟の危機は始まって(継続し て)います。現在もテナントを募 集している最中です。 修復後、疑問点が数点あがりま した。一つは、修復が忠実な複製 と同義である(特に主要棟のケース)とき、その建物はオーセンティックな建築と言える のかということ。二つは、ゾンネストラール・サナトリウムはモダン・ムーブメントの文 <写真 30>修復後の主要棟の写真(2003 年) <図4>医務室の修復 <図4>医務室の修復 <図5>修復後の主要棟

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-84- 化財保存の象徴となれたのかということ。三つは、ヘンケットが当初の設計意図に矛盾す る保存を行った様な、明らかに永続的に建てられた訳でもない建物を、当初の設計者の意 図に反して大事にする事が、果たして正当と認められるのかということ。 次にデ・ツウィハー倉庫の事例を見ていきましょう。デ・ツウィハーとは英語で「サイ レント」を意味します。この倉庫は、J・デ・ビ・ルーフェリンク・ティーンクと K・バッ カーによって1933 年から 34 年にアムステルダムの港湾地区に建てられました。私はアム ステルダム市の遺産部門に勤務していた時に、実際にこの建物の価値評価を行いました。 価値評価を行う中で現れた建物の特徴は、閉鎖的な空間であること、鉄筋コンクリート造 であること、部分的に施されたレンガの外装とそれを投影して小窓が規則的に並ぶ手の込 んだ外観、というものでした。保冷倉庫のため非常に閉鎖的な空間でした。1999 年、市が ヤワ(ジャワ)島と IJ(アイ)のバンクと をつなぐヤン・シューファー橋を、デ・ツウ ィハー倉庫を貫いて建設しました。この工事 によって、建物のニ層分や収納形状の構造と いった特徴的な部分が失われてしまいまし た。建物の損失を受けて、アムステルダム市 は倉庫を解体しようとしましたが、運よく倉 庫が国の文化財リストに載ったため、プロセ スは中止となりました。こうして倉庫は守ら れたのですが、建物に構造物を新たに造る作 業も必要でした。 図6はアンドレ・ファン・スティックトによる変形・修復の結果を視覚化したもので、2006 年に工事は完成しました。新たな計画として、建物に文化的プログラムやオフィスの機能 が導入されました。当初の機能(倉庫)も一部残され、元の構造も部分的に見られるよう になっています。 このようにデ・ツウィハー倉庫は変形さ れつつ守られた訳ですが、この建物はなお も以前と同じ特性をもつ同じ文化財と言 えるでしょうか?この文化財のうちどれ くらいがオーセンティックでしょうか? このことにつきましては、後ほど行う座談 会でまた取り上げます。 では次の事例に移ります。図7にある写 真は1955 年、アーンヘム市のソンスビー ク公園内に、ヘリット・リートフェルトが 彫 刻展覧 会のため に建て たソン スビー <図6>デ・ツウィハー倉庫の修復 <図7>ソンスビーク・パビリオン

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-85- ク・パビリオンの写真です。 既に55 年の彫刻展覧会開催中に、オッテルローのクレラー・ミュラー美術館の館長ハマ ーハ教授が、パビリオンを同美術館内に再建する事を提案しました。というのも、彫刻展 覧会は 6 カ月間しかなかったからです。館長はパビリオンを美術館に隣接する彫刻の庭に 建てることを提案しました。しかしこれは55 年には実現しませんでした。63 年にリートフ ェルトの同僚らが、彼の65 歳の誕生日のプレゼントとして(彼が設計した通りの)パビリ オンの復元を提案しました。同僚らは資金を集め、シュレーダーも加わり、リートフェル トにどこに復元したいか希望を尋ねました。彼はクレラー・ミュラー美術館内の彫刻の庭 に再建することを決めました。64 年から 65 年のことです。 図8にある写真は 65 年当時に撮影さ れた、パビリオンの天井部分や細部、リ ートフェルトの使用したコンクリートブ ロックの写真です。 このような細部の“B2 (ビーツー) ブロック”を彼は(パビリオンに)使用 していました。この写真は確か 2006 年 のものだったと思います。 この時には至る所に老朽箇所が写真の ように見受けられました。 (パビリオンは)2005 年には徹底的な メンテナンスが必要な状態でした。劣化状態があまりに激しかったので、修復が検討され ました。所有者である国立建造物管理局は修復の見通しを作成しました。時の館長は取り 壊しを提案しました。彼はさしてパビリオンに未練はなかったのです。そして困ったこと に、パビリオンは文化財リストに載っていなかったのです。 修復の見通しですが、先程申しましたようにパビリオンは悪い状態にありました。構造 は脆弱で、頑丈な造りではありませんでした。またこのパビリオンは、ソンスビークにあ った当初のものといささか異なり、当初のパビリオンと同一のものではないのです。さら に、これは議論の焦点にもなっているのですが、パビリオンはリートフェルトによるオー センティックな設計で建てられたものではないのです。(設計を行ったのは彼の若い同僚で、 リートフェルト自身は1964 年 6 月に亡くなっています。)議論で確認されているのは、素 材のオーセンティシティが重要なのではなく、リートフェルトの空間に関する考え方のオ ーセンティシティこそが重要であるということです。 結果、リートフェルトのパビリオンを復元もしくは再建することが決定されました。作 業は既存の建物と解体の際行う調査に基づいて行うこととなりました。調査のメンバーで あり、数年リートフェルトと仕事をしたこともあるベルタス・ミュルダーは、この再建を 復元と捉えました。ベルタスは空間の再現に基礎をおき、建物の具現化は副次的なものと <図8>ソンスビーク・パビリオンの細部

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-86- みなしていました。そのため彼は、この工事をより良い素材、より良い技術による建物の “改善”だと主張していました。 こうしてリートフェルトのパビリオンは取り壊されました。素材のうちまだ使えるもの はできる限り再利用しました。 リートフェルトの時から改良を加えた ものとしては、例えば図9にある写真の ように、新調または造り直した葦の天井 板が、屋根部分の外部から見えないデッ キ下に取り付けられました。右下の写真 はB2 ブロックですね。 写真 31 はすっかり新しくなった建物 の写真です。これが現在の建物です。再 建に使用した材には一部、鋼製の支柱や 補強を施した木材といったような、前の 建物の素材が再利用されました。B2 ブロ ックは全て、品質のより良い新しいもの に造り直されました。 これは修復でしょうか?最初 55 年に 建てられ、次に65 年、その次に 2010 年 と建てられたことは好意的に受け止めま すが、これは修復なのでしょうか?復元 なのでしょうか?はたまたベルタス・ミ ュルダーによる別の新しい建物なのでし ょうか? 最後に私の全体的な所見を述べます。 これには批評的なご意見もお持ちになる かとは思いますが。これまで私は建物が 取り壊され建て直される経緯を見てきましたが、リートフェルトのこの建築はどちらも美 術館の所蔵品の一つと考えます。65 年と 2010 年の建物はリートフェルトによる建築では ないという人もいますが、わたしはどちらもリートフェルトによる設計であったと考えま す。なぜなら彼のスケッチが残っており、いくつかは彼自身が生前描いたものだからです。 リートフェルトの著述を見ても分かるのですが、彼の空間に対する考え方は、空間それ自 体だけでなく、空間の区分、テクスチュア、色彩、素材といった、空間を可視化する諸要 素につながっています。以上の事から真の修復とは、復元や新築とは別けて考えねばなら ないものだと思います。 では成果発表の終わりに、写真を 2 枚ご紹介します。私がネバーズ建築研究所の記録保 <図9>ソンスビーク・パビリオンの再建 <写真 31>再建されたソンスビーク・パビリオン <写真 31>再建されたソンスビーク・パビリオン

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-87- 管室で蒐集しました、リートフェルトが亡くなる64 年以前に残したスケッチです。これで 私の発表を終わります。 ◎講演3:後藤 治「日本の近代建築保存の諸問題」 私に与えられたテーマは、「日本の近代建 築保存の諸問題」ですが、今日は大きく分け て2 つ、日本における近代建築保存の歩みと 問題点という 2 つのことを簡単に紹介した いと思います。 まず、保存の歩みについてですが、日本に おける近代というものを知っておいていた だきたいということです。日本人の方はよく ご存知でしょうけれども、基本的には江戸時 代の終わりにペリーがやってきて開国をし、 それから明治維新を迎えた、これが日本では一般的に近代の始まりといわれています。従 いまして、外国を受け入れるということが近代だったとよく語られています。そういうこ ともありまして、日本の近代建築の保存は、明治のはじめから100 年たった 1970 年代にす すみました。さらに1970 年代に保存がすすんだのは、洋風建築だったということです。従 いまして、今日話題になっておりますモダニズム建築も当然この中に含まれています。こ れが大きく変わるのは1990 年代のことです。 国が建造物だけでなく、近代の文化遺産の保存に関する総合的な検討というのを行いま して、それによって建造物の保存は大きく転換していきます。昭和の建物が保存の対象に なりましたし、第二次大戦後の建物も保存の対象になりましたし、もちろん、モダニズム のインターナショナルスタイルの建物も保存の対象になりました。こういった保存の内容 <写真 34>後藤治 <写真 32・33>リートフェルトが残したスケッチ

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